TIPOGRAFIAの店内はすべて禁煙です。あまりおっぴらに禁煙サインを出していないのですが、ガラス面にはポルトガル語で“PROIBIDO”と京都弁で“堪忍どすえ”とあります。指示した本人が言うのも何ですが、よく見ると極めて不可解な禁煙マークですね。異国語で怒鳴られる国辱的強引な禁止と対極のはんなりとした婉曲の微妙な間が??誠に京都的な表裏のある、閉ざされた盆地の小宇宙を表現している一品です(嘘)。
さて本題の禁煙です。TIPOGRAFIAを開店するにあたってタバコをどうするかの判断は最後まで悩みました。大手の企業でありませんのこの程度の規模で分煙は不可能です。なんちゃって分煙(パーテーション1枚でスペースを区切っただけのいんちき分煙)は問題外です。白か黒かしかありません。コーヒーを売りにしている店にとってタバコが商品を活かすか?殺すか?の判断です。映画『COFFEE AND CIGARETTES』のタイトル通り相性のいい伴侶であることは認めます。眼を細め、右手で紫煙をくゆらせながら左手で苦味のある液体を楽しむ……何かフランス映画の1シーンの様である種の憧れもありました。でも煙いの苦手やし……。
最終的に導き出した結論は禁煙でした。前提となった考え方は
何かを失うことと得ることは同義である
でした。「死は生の対極としてでなく、その一部として存在している」と書いたのは村上春樹です。英語でいう“LOST AND FOUND”の言葉の通り何か(あるいは誰か)を得ると必ず同時に別の何か(誰か)を失います。カードの表裏でなく一部として存在します。その瞬間、瞬間の選択を無間地獄のように繰り返して生きていきます。そして選択をやめた時こそがDEAD END(死)です。人生にも歴史にも“IF”はありえません。過ぎ去った過去は確定され、不可逆なもので、エントロピーは無限に増殖していきます。
選択の判断基準はまちまちだけれど、多くは秤の両天秤に掛けて、無意識かあるいは確信犯的に途を選んでいきます。大手企業の場合は完全に企業イメージであり商品イメージの損得の戦略判断です。
何でも、要は選択(途を選ぶということ)の問題なんですよ。禁煙を選択することによって得るお客様もいれば同時に失うお客様もいるということです。逆も同様にタバコを開放しても、得るお客様と失うお客様がおります。
♪どっちが得かよ〜く考えてみよう!てなもんです。禁煙ほどの問題でなくても、お店でBGMとしてJAZZを流したとしますね。これだって、体質的にコーヒーには演歌しか受けつけない方、静謐のみが一番の方にとっては決して整合しません。多かれ少なかれ、何かを得て同時に失います。
誠に勝手ながら、最終的には店主の個人的主観を優先しました。1日フルタイムで店にいる訳ですので店舗運営上可能な限りストレスとなる要因は事前に排除せざるえません。やはりタバコを吸わない人間にとっては煙はしんどいもんです。新幹線の喫煙者には近寄りたくない!その他の考えられる理由としては
@白くきれいなお店でありたい(白壁は煙で茶色くなります)
Aコーヒーの香りを楽しんで欲しいから
(タバコの煙とコーヒーの香りは喧嘩して、概ねコーヒーの負け)
あたりですか?
一番大きな判断材料は喫煙者が「吸う」か「吸わない」という自己意思(欲求・マナーに準ずる)での選択が可能なのに対して嫌煙者は選べないんことです。同じ空間で誰かがタバコを吸うと当人の意思によらず煙を吸わされてしまいます。多分そんな時、自分なら露骨に不快感を顔を出してしまいまうでしょう。これはサービス業として接客的にどうか?とプロとしてあるまじきことです。でもきっと我慢できません。それなら……。
ということで、茶化しつつも、文学、哲学から量子力学まで駆使して禁煙理論を押し付けてしましました。あ、これは屁理屈です。今度から“MASTER OF 屁理屈”と呼んで下さい(嘘)。まあ、世の中いろいろ意見はあるでしょうけど寛容な気持で「このおっさん!まあ、しゃないな」とお許しいただければ幸いです。堪忍しておくれやす!