2007年01月12日

ダーウインの悪夢

ダーウイン.jpg

ドキュメンタリー映画『ダーウインの悪夢』です。

映画であれ、活字であれ、世の人はフィクション派とノンフィクション派に大きく2つに分けられます。それは興味の対象が絵空事である人と現実である人です。私は圧倒的に前者で荒唐無稽であればあるほどはまります。活字でもノンフィクションものは避け、小説に走ります。今回の映画はタンザニアのドキュメンタリーであり、まぎれもないノンフィクションのはずです。そこで疑問です。ドキュメンタリー映画は果たして現実(リアル)なのか?スクリーンに映し出されている映像は現実なのか?

映画(MOTION PICTURE)の持つ特性として、フィルムなりヴィデオなりに記録された映像はそれ自体が記号化します。正規の時間軸から切り取られた断片は決してリアルでなく単なる映像情報として存在します。例え生中継を編集なしでリアルでそのまま垂れ流した場合であっても、現実が映像情報として変換され、モニターされた時点で虚構性をおびてきます。それはモニター越しの戦争がリアルに感じされないのと同じです。

ドキュメンタリー映画とは現実(人物、空間、事件など)を見つめ、何かしらのメッセージを伝えるメディアと仮定するならば、究極的な方法論は2つしかありません。

 @編集(モンタージュ、ナレーション、音楽、音響効果など技術・技法)
 
 Aやらせ(架空の現実をフェイクで映像化する)


これらのテクニックを使用しないドキュメンタリーは存在しません。
記録された映像ソースを監督のプロパガンダのために切り刻み意図的につなぎ合せ、ナレーションや音楽を乗せて編集。これはレトリック以外の何物でもありません。また当事者へのインタビューなどカメラを向ける行為自体、恣意的な誘導尋問であり、穏便なやらせの無いドキュメンタリーは存在しません。

実際、マイケル・ムーアの『華氏911』などを観ているとブッシュとの泥試合よりも、技術としての編集技術を痛感します。まさにプロパガンダです。

さて、本題。
映画は半世紀ほど前ナイルパーチがタンザニアヴィクトリア湖に放たれたことに発する事実です。在来種を絶滅させ、爆発的に繁殖したナイルパーチはヨーロッパや日本に白身魚として輸出され周辺の産業と化します。でも結果、豊かさは訪れず、貧富の差が拡がり、貧困、売春、HIV、ドラッグ、ストリートチルドレンと絵に書いたような悪夢が展開されます。そもそも肝心の魚は食糧でなく、輸出用に加工され、地元民は屑をから揚げにして食べる始末。さらにはプラスティック容器を燃やし発生したガスを路上生活する子供たちが現実を忘れるため吸引します。これでもか、これでもかとつらい現実を突きつけ、何の解決も結論もなく唐突に終わる、まさに悪夢のような映画です。ここで疑問です。いったい誰(何)が悪いのか?ナイルパーチ?そもそも種としてダーウインの唱えた弱肉強食・適者生存に従ったまでで、敵役として攻めるのはお門違い。ではナイルパーチを放った人間(誰!)?それともお決まりの先進国と発展途上国の経済的格差?もう、どうでもええちゅうねん。回答はありません。

一応、コーヒー屋として忘れてはならないのは、タンザニアはコーヒーの産地でもあります。コーヒーというの農作物もまた世界的な搾取するものと搾取されるものの図式で成り立っている事実。豊かな日本で飲んでいるコーヒーを作り出しているのは間違いなく第三世界の人々の汗です。そのことは決して忘れてはなりません。
posted by 焙煎師TIPO at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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