あまりにもこだわり過ぎて奇行で有名なあるコーヒー屋の話です。
店主がカップに半ば残したコーヒーを見て、店を飛び出し、お客様を追っかけて、なぜ残したのか理由を教えてくれ!とつめよった、とコーヒー業界に半ば都市伝説のように伝わっています。
おっさん!そんなあほな!というのが常識的な突っ込みです。
でも最近、その気持ちが少しは理解できます。
カップに残されたコーヒーはものすごく不安にさせるんですよね。瞬時になぜ?という疑問が全身を駆け巡ります。カップを下げるまでの10秒位の間に走馬灯のようにいろいろな理由を探します。
量が多かったのかな?(……確かに多いかも知れない)
濃すぎるのかな?(……確かに普通より濃いかも知れない)
好みの味わいでなかったのか?(……お奨めを間違ったのかしら)
それとも純粋にまずいのか?(……一番へこむ理由)
もちろんお客様を追っかけて問いただしませんので、真実は永遠に藪の中です。
理屈では理解できています。味覚は非常に個人的、主観的、相対的、感情的、環境的なもので「唯一絶対」は存在しません。特にコーヒーなどの嗜好品は顕著です。別にコーヒーを飲まなくても人生を過ごせます。
栄養学的には無意味でも、人生を毎日生きていくための活力としての意味を与えたいのがコーヒーです。TIPOGRAFIAでは既製品のコーヒーを提供することはありません。すべて店主自らが我が子のように煎り、たてたコーヒーです。別に完璧なコーヒーという訳ではありません。馬鹿だけど、不細工だけど可愛いくて仕方がない子もおります。こうなると完全に親ばかの世界ですね。我が子が誰かを幸せにすれば至高の喜びであり、悲しい気持ちにさせたなら不幸です。なまじ血を分けた思い入れが強いとつらいものがありますね。
反対にお客様の「おいしかったよ」の一言はキリストと仏陀が肩を組みながらフレンチカンカンを踊りながら自分のために素晴らしい説教をしてくれるより1000倍ありがたいものです。
そんな一喜一憂の毎日です。
追伸;“好奇心は猫を殺す Curiosity kill the cat”といいますが、コーヒー屋を殺すのは好奇心でなく、カップに残された液体です。そういえば同名のバンドがありましたね。ある世代(40前後)の人でないと知らないネタです。